帰る | |
みらい”から見える、緑に覆われたズリ山と、 こもれび通りです。【宝性寺から赤奈江まで約3`(30,090b)赤かえで・朝鮮山つつじ・道たんつつじ が植林されています。】 |
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その7 『赤平の礎・加賀移民団ものがたり』 | |
その昔、今の住吉の川向かいにそれは平和なアイヌコタンがありました。コタン(村)には美しい一人のメノコ(娘)がおりました。 ピリカメノコは、コタンの長(オサ)の息子ヘカチ(若者)とその年の秋、満月の日に結婚することになっていました。しかしその年はどうしたことか寒い日が続き、田畑の作物も山や川の物も全く取れなかったのです。そのため、結婚式は次の年にのばすことになりました。 春になる頃には、食べる物もなくなり、ヘカチも遠くへ狩りに出かけたのです。ピリカメノコに帰る日を待つように言い残して・・・。しかし、桜が咲いても・・・散る頃になっても、ヘカチは戻ってきません。 ピリカメノコは今日帰るか、明日は帰るかとヘカチを待ち続けました。 ところが、誰言うとなく噂が広がりました。あのヘカチがどこかのコタンで別の娘と結婚し、仲良く暮らしているというのです。 ピリカメノコは信じられませんでした。でもその年の秋の満月の日になっても、ついにヘカチは戻ってきませんでした。 その夜、ピリカメノコはヘカチと結婚式に着るはずだった美しい服を身に付け、月明かりに照らされた峠を登りました。 そして明るい満月の下、黒くよどんだ空知川の絶壁から身を投げたのです。次の日、コタンの人々はみんなでピリカメノコを探しました。しかし不思議なことに遺体を見つけることはできませんでした。 それからまもなくの事です。その辺りに一匹のサメが現れ、川を渡る人を襲うようになりました。人々は、そのサメは、ピリカメノコが姿を変えたのだと思いました。そこで、川を渡る時は必ず食べ物を与えて慰めるようになったということです。 この言い伝えから、この辺りを「サメブチ」と呼ぶようになったのです。 【昔のサメブチは、川沿いの峠で決してスピードは出せない危ない道でした。サメブチと言われるにぴったりの、川に突き出た坂道の、そして自殺の名所でもありました。そのせいで、近年までお化けが出る話がまことしやかに噂されたものです。 現在のサメブチは明るいトンネルとなり、事故も最近では聞かれなくなりました。 ・・・月日とともに、メノコの悲しみも天に昇ったせいでしょうか・・・?】 |
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昔、赤平市若木町のあたりに急な坂道があり、念仏坂と呼ばれていた。開拓もまだ充分に進んでおらず、うっそうとした樹木が覆い茂って昼でも薄暗かったため、人々はここを通る時、念仏を唱えて歩いたという。 この念仏坂を下りきった山肌の木立の中に、小さな八幡神社があった。ある年の春、境内で近所の子供たちが何人か集まり、かくれんぼ遊びをしていた。ひとりの子供がオニになり、太い松の大樹に向かって目を閉じた。残りの子が思い思いに隠れた。 「もういいかい。」 「もういいよ。」 子供たちの声がこだまする、のどかな昼下がりであった。 ところが良く晴れていた空がにわかに曇り、入道雲がもくもくと現れたかと思うと、たちまち激しい稲妻が走り、ものすごい雷が鳴り響いた。子供たちの頭上で烈火のごとく光った瞬間、雷は松の大樹を直撃した。 大樹は切り裂かれ、轟音をたてて倒れた。あたりに隠れていた子供たちは驚きのあまり声も出なかったが、オニになった子の安否を気づかい、おそるおそる倒れた木の下へ駆け寄った。しかし子供の姿はなかった。「どこに行ったのー。出ておいでよー。」 一瞬のうちに雨は上がって、子供たちは必死になってオニ役の子の行方を探したが、神隠しにでもあったように、どこにも見当たらなかった。 夕暮れになって子供たちは疲れ果て、ふたたび松の大樹の所に集まってみると、そこに一匹の白蛇がとぐろを巻いて、まるで訴えるように哀しげに子供たちを見ていた。 「白蛇はきっとあの子の化身だ。」子供たちはそう言い合って帰った。 それからというもの、子供たちが境内で遊ぶと必ず白蛇が現れ、じっと見つめるようになったという。 【実はこの話には、別の説もあります。 子供のいない夫婦が神に子供が授かるようにと願っていたところ、ある日大木に雷が落ち、そこに可愛い子供が棄てられていた。その子はきっと神様が授けてくれたのだと夫婦は大事に子供を育てたが、ある日子供が遊んでいる時、にわかに雷が落ち、子供が忽然と消えてしまった。そしてそこには白蛇が哀しげに父母を見ていた・・・。そんな話だったと思います。この事は突然子供を失った悲しい現実を受け止められず、蛇に変身したと思いたかった夫婦がいたのでは?と子供心に理解した昔話でした。 いずれにしても昔の赤平の地には蛇が沢山いたという事です。蛇神の碑と神社は徳川城の裏にあります。】 |
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歌志内〜赤平〜芦別・・・・・そこは“不思議ルート”!? 明治の時代の歌志内は、炭坑ができて鉄道が開通したことなどから、人と物が集まるようになった。 今と違って、空知川沿岸には道路や鉄道が整備されておらず、歌志内から山越えをして空知川まで出て、船で赤平の百戸に渡り、芦別の新城に通じる開拓道が使われていた。このどこかに“雪女”が出たという。 『明治37、8年冬の深夜10時過ぎ、腰まで埋まる積雪。闇を怒り狂うように襲う吹雪。「どうぞお願いでございます。一寸の間この児を抱いてやってください。」この世のものならぬ美しさの真っ白な姿の雪おんなはか細い声を出し、そういって自分に取りすがった。』 大正6年に発表された葛西善蔵の小説「雪おんな」にはこう書かれている。後に本人が「空知川の上流ばん渓川よりさかのぼった百戸村それから深山五、六里山路を入ったようなところ」と述べたことから、雪女の“出現場所”は芦別市の新城附近という有力な説がある。 一方では、「歌志内から雪の山越えをして、又吹雪の中を歌志内まで帰ってきた」とも述べ、小説では「私は、親方に別れをつげて、午後の2時頃から六里の路を炭山の町へと越した。町手前二里ばかりの峠にかかった時には、もう10時を過ぎていた。」と書いている。 「炭山の町」が歌志内とすると「町手前二里ばかりの峠」は開拓道のどこかになる。二里は約8キロだが、当時は道路標識などないため、正確にはどのあたりかわからない。 歌志内では、本町沢の成田山附近という説が伝えられている。その後、新道が開通し、昭和になってトンネルもできたことから、山越えはなくなった。 さらに新しいトンネルも完成し、頭上の山に踏み入ると、歌志内−赤平−芦別の開拓道が、“不思議ルート”として再現するかもしれない。 【今年、平成17年11月赤平市民劇場“絆”では、歌志内ルートより赤平市内に入った開拓民の劇を公演予定です。何がおきるかわからない原始林の細道では、このような怖いお話があっても不思議ではありません。興味のある方は、是非、赤平から歌志内行き、だらだら坂道を上り、古いトンネル附近を探索してみてはいかがですか?】 |
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それはそれは大昔、アカビラ附近で北海道を作ったコタンカラカムイという神様が、性悪の熊に襲われ大けがをしました。 それを聞いた妹(または妻トレイシ)が泣きながらコタンカラカムイのもとへ駆けつけました。その途中で唾を吐くと、それが白鳥になったのです。だから白鳥は今でも女の声で悲しげに鳴きながら空を飛んでゆくのです。 また、泣くと鼻水が出て手ばなではなをかんで投げると、その柔らかな鼻汁があしの草となり、硬い鼻汁がおぎの花となりました。 こうしてコタンカラカムイのもとにたどりつき、傷は思ったほどひどくなく、二人は世界づくりの仕事も終わったので天に帰ることにしました。それで地上に自分たちが使った一切のものを置いて行くことにしました。その際、肌衣(モウル)を海を所有する翁(アトイコルエカシ)が投げると亀(エチンケ)となりました。 貞操帯を投げると蛸(アッコルカムイ)になり、最後に、その時地に落ちた陰毛(ホヌマ)がススキ(ラペンペ)になったのです。 だからススキは群がって生えるのです。 【神の国の不思議な昔話です。日常のどんな物にも命がある大切なものだよ、という意味に思えたりします。あなたはどのように感じたでしょうか・・・?】 *赤平ふるさと文庫から参照しています。 |
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今回は、赤平市との友好都市であり赤平の先人の出身地でもある石川県加賀動橋村のお話です。また赤平市民劇場では加賀開拓民の事実にもとずくフイックションのミューカルをこの11月6日(日)公演予定で有り、タイムリーな動橋村伝説です。 「赤平市によると、石川県江沼郡動橋(いぶりばし)(現在の加賀市動橋町)を中心とした加賀団体は、明治28年3月30日歌志内到着、一泊して、4月1日に上赤平へ第一歩を印し、寺西幸三郎氏を団長に明治28年35戸、29年3戸移住されたとある。 当時は、新潟、石川、富山など本州から北海道への移住が進んだ。」 加賀伝説 『動橋(いぶりはし)村のある男が夕暮れに時に振(ふり)橋(はし)神社(じんじゃ)の前を通りすぎようとすると、境内に一人のきれいな女がしくしく泣いていた。女は、男に動橋の者がみんな松前(北海道)へ行ってしもうた。これから私はどうしたらよいのですかと、泣きながら尋ねた。そこで男は、動橋の在所は大きいから何とかなるわいね、と答えると、女はスゥーと神社境内後ろの鎮守の杜の暗闇の中へ消えていった。 「この消えた女は実は振波(ふりは)志(し)の神様であった。この神社の祭神は菊理姫(越の白山(はくさん) 女神)であって、菊理姫が氏子がだんだん少なくなっていったのを恐れて神社前に出現したのである」 この伝説は、加賀市の郷土史研究家 池端大二氏の「北の無名碑」に掲載されているものであるが、動橋村からも多くの人たちが北海道へ移住したことをうかがい知ることが出来る。』 【動橋住民が開拓の為故郷から離れて行く様の、その寂しさ不安が神様まで涙する程だったのですね。赤平の炭坑閉山で沢山の住民が駅で別れ涙した事が思い起こされ、別れの悲しいお話であります。でも「なんとかなるわいね」ケセラセラ!が人生の結論と言う事なのでしょうか?貴方はどう思いますか?】 |
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赤平の豊里炭礦は、昭和12年に開礦しました。 炭礦で馬の行う仕事は、坑内の石炭運搬やズリ山までのズリ運びが主なものでした。 豊里炭坑ではこれあらの運搬の仕事を高橋組が請負っていました。高橋組では百頭近い馬を扱っていました。 馬丁が馬を連れて坑内に入りますが、12時間の労働でした。馬たちはトロ(炭車)を5〜6車つないで引きました。暗い坑内で鉄のレールに脚をぶつけて蹄鉄を落としてしまうことがあり、馬丁が気づかず使役して爪が欠けてしまうこともありました。 そして傷口からバイ菌が入って助からなくなるものもありました。詰所には大小さまざまな蹄鉄があって馬丁の名前で百頭の馬の足を覚えていて連絡があると、すぐ蹄鉄を打ち付けに行ったものです。 坑内でも馬の扱いは場丁にまかされていて、良い馬丁に使われと健康で長持ちしたが、悪い馬丁に使われると早死にしました。特に戦争中には、馬のエサの中から大豆などの栄養のあるものを馬丁が食べてしまい、馬は栄養失調になって死んでしまい、多い時には、二日間に一頭の割合で死んだこともあったといいます。馬糧をこっそり持ち帰って鶏を飼っていたのもあります。 12時間坑内で働いた馬たちは、陸に上がると1目散に自分の馬小屋に駈けて行きました。馬たちは坑内で働くように調教しますが、はじめのうちはトロッコの音が後ろから追いかけてくるのでとても恐がります。だんだん慣れてくるとトロッコの音で仕事を覚えました。 戦時中には、坑内での馬糧の中から馬丁が良い物を取ってしまうので馬はやせ細ってせいぜい三年ぐらいしか生なかったといいます。 坑内で5〜6年も働いた馬は珍しかったということです。 馬が死ぬと肉は礦夫たちが食べました。傷をして働けなくなると虐殺し肉にするために解体しました。そして、馬肉は坑内で働く物に分配されました。戦時中は人間も食糧不足で苦しんでいましたので馬が死ぬと礦夫は喜んでいました。時には解体して肉を分配する段階で肉取りの喧嘩のおきる事もありました。 ある時、一頭の馬が支柱枠に顔をぶっけて大けがをしたというのです。その馬は日頃気性の素直ないい馬で、原因をよく調べてみると、坑内の現場で馬が何かにつまずいて脚を痛めてしまい、蹄を浮かして痛がっているのを知らないで馬丁は急に馬が炭車を引かなくなったので腹を立ててヤキをいれたのでした。馬は額の皮と肉がぺろりとむけて血を流し、尻にも何かで刺した傷があり、そこから血が腹に向かって糸を引いていました。蹄も痛めてかなりの重傷でした。結局生きられず虐殺されてしまいました。その肉の解体のときに、ヤキをいれた馬丁も肉の分配にあずかるために来ていました。戦時中は炭礦に働く馬にとって受難の時代でした。 「あかびらふるさと文庫」より 【戦時中、石炭は大切なエネルギーであり、又緊迫した食料事情時代の真実のお話しです。読むに耐えられないような、動物残酷物語です。疲れ果て 一目散に小屋に走る馬の、物言えぬ馬の辛さゆえの行動を表し、とてもせつないお話です。餓えもなく、道理で行動できる 世の中を望んでやみません。・・・・・】 |
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遺 書
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痛ましい大西団長の死は、村人たちはもちろん道にも大きな衝撃 を与えました。 そして初めての厳しい冬が終る三月、道は偽名者も団体移民と して認める決定をしました。この頃、平岸地区に三重団体移民が、 茂尻・幌岡地区にも相次いで入植者が入り赤平が形作られてい きました。 加賀移民団は、大西団長の死をかけた陳情 によって危機が救われたことを忘れぬよう毎年供養を営みました。 団長の子孫のと方と、団長役の神田さん |
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【フィクション物語として平成17年赤平市民劇場で公演した |
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編集:監修*新出郁子 | |
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